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『社長の想い』 ~ つぶやき日記 ~

家族葬の弔問・会葬マナー  (11.1.9)
新聞のお悔やみ欄に「家族葬で執り行います」と出されるのが目立ってきました。
私どもでのお客様のご葬儀にそういう表現をしたら、何件もの問い合わせがありました。
 「義理を返さなければならない」「家族以外は行けないのですか」「そんなみっともない葬式なんて」「世間体が悪い」など。まだまだ家族葬が理解されてないのでしょう。
30年近く前に、東京で葬儀の勉強をさせていただいた頃に「家族葬」は周囲の理解のもとに行われていました。
そのころは「家族葬」と云う言葉はありませんでしたが、有名な企業の元会長とか、某大学の名誉教授とか、劇団何々の女優さんとかのご葬儀が家族や親しい人達で行われる葬儀が増えつつある事を知りました。
多種多様の宗教がある中で「宗教は私の家のこと」との考えや、大勢の人に知らせて大勢の会葬者での葬儀の意義は何なのか?との考えであるとのこと。
家族葬として葬儀を行うことを知って、義理を返さなければ、とか会社の規程でとかの場合は、お通夜や葬儀の始まる一時間くらい前に行き、遺族に会えれば挨拶し焼香をして失礼をする。
それがマナーなのかも知れませんね・・・
このときの服装も略礼服でなくダークスーツなどでもイイと思います。
それもご遺族への気遣いになるかも知れませんね
久しぶりの結婚式です(11.2.14)

久しぶりのつぶやきです。
友人の息子の結婚式に招待されたときのことです。
私の時代の結婚式のそれとは大きく変わっているだろうと期待を持って出席しました。
もちろんチャペルでの式。
小さい頃に教会の幼稚園に行っていたので、いくつかの賛美歌は覚えています。
大きい声で唄っていると前の席の若い女性が振り返り、クスッ。
たぶん、頭の薄いおじさんにしては?と、珍しく写ったのでしょうね。
そこで、ずいぶんと変わったなと思うよりも、シスター?かどうか判らないけれど、それらしい服装をしてる演奏者や花嫁を介添えするシスター?。やり過ぎじゃないの・・・・  少し冷めちゃったかな
でも想い出してみれば、私も式場勤務のときにも事務制服に身を包んだ女子社員を神前で
巫女さん役をさせていたんだぁーと。  昔も今も変わらないのでした。
そして変わってないのは形だけかも知れませんけど「無宗教」でない・・と言うことですね。
でも、ファッションととらえているのかも・・・

変わったかな?・・・と感じるのは、友達が大勢で親戚とおぼしき人達は、新郎の伯父叔母従兄弟くらいまで。
半分以上は友人知人なのかな?。遠い親戚よりも近くの他人 てことですね。

It's Been a Long long Time (おひさしぶり) 2010.3.7

 卒業旅行のシーズンですね。
40数年前にはあったのでしょうかねー
 先日、大阪に住む友人が去年の8月、亡くなったことを知りました。
ご遺族の方達も、遠方と言うことで知らせは遠慮したそうです。
高校のブラスバンドで一緒。
社会に出てからも音楽を続けていました。
もちろんスキーや山登り、海水浴と遊びまくった友人です。
 いつでも会える、遠慮がいらない仲間だから便りの行き来をしてません
「便りの無いのは無事でいる証拠」と言いますが、そうではありませんでした。
今思えば、年賀状くらいは出していればと悔やみます。
来週、当時の仲間達とお線香をあげに行きます。そして、
海辺の温泉地に卒業旅行をすることになりました。
だからそいつを誘いに行きます。
あいつは写真での参加になっちゃいましたが・・・
一晩、語り明かします。40数年ぶり
Things Ain’t What They Used To Be (昔は良かったね)

今、あのころの写真を編集しています。
      家族へのプレゼントに・・・
 

忘れられない涙  2011.4.14
3月11日の大震災。あの長い揺れで式場が被害を受けてしまいました。
祭壇ステージの照明やら緞帳やらを吊す「すのこバトン」の補修と安全対策に一週間かかりました。
建物は外壁がいくつか剥がれた程度でしたが、これも10日ほどで復元。
大阪の友人の霊前参りは日延べになってしまいました。
バタバタとしているうちに、ひと月が過ぎてしまいました。
 震災から2週間経って、津波の犠牲になられた方の荼毘の依頼がありました。
二人の子供はまだ小学生。安置所の母の顔を見ることもできなかったそうです。
26日朝に宮城を発ち、午後の火葬予定時間より早く鹿沼についたので、子供達に
母親の顔を見せるために式場に安置することにしました。
可能な限りのお化粧と、髪を整えました。
着のみ着のままの子供達の嗚咽と涙。
 子供達を心配して車で学校に向かう途中津波に巻き込まれたようです。
それを止めようとしたおばあちゃんは無事でした。
突然、母を 娘を 兄弟を失った家族。多くの被災者が同じ悲劇の中にいます。
誰に怒りをぶつけたらいいのか、誰を訴えればよいのか。
やりきれない思いで送らなければならない家族に、今も想い出すと目が潤みます。
 そこに火葬場から戻ってきたご寺院様がお経をあげて下さいました。
テレビでは仮の土葬が流れます。それを見て言葉は見つかりません。
その家族が火葬場から帰ってきました。
お兄ちゃんが持ったお骨箱を見て、また涙がこみ上げてきました。
心に残るお手伝いが一つ増えたこと誇りに思い、けして忘れません
 私の属するロータリークラブで立ち上げた被災支援チームが
4月4日、岩手県大船渡市に支援物資輸送で訪れました。
停電で真っ暗なトンネルを抜け、目の前に拡がった光景。
津波の被害という認識がなかったら、広い空き地に捨てられたガレキの山、
そして使われていない砂利道としか思えません。
隣は流され、少し高いところに建つ家は無傷と被害がはっきり分かれています。
自然の力の恐ろしさに、言葉を失ってしまいました。
避難所の人達にも家族を失った人は大勢いるだろうにと・・・・
少しでも早い復興を願い祈るばかりです。
歴史探訪

6月8日、飲食店組合の全国大会が岐阜県高山市で開催されました。
その大会に、当社の大豆アミノ酸消臭剤を出展しました。
ゴキブリがいなくなっちゃうよ・・・と、食中毒の予防とに関心が寄せられ
100名を越えるお客様の対応に汗だくでした。

  翌日、一度訪れたかった「白川郷」と「五箇山」
合掌造りの説明に、先人の知恵の素晴らしさにカンゲキ
智恵とは未知への挑戦と発想の繰り返し。あたりまえダヨ!
昔は、生糸と塩硝づくりが村の産業だったそうで、
その塩硝づくりにはカイコの糞・人間のおしっこが欠かせないそうな。
どうして糞とおしっこが火薬の材料になるのか・・・。
幾年かけて考え出したのでしょうか?

 五箇山に行きました。
「こきりこ節」を探りたかったのです。
・・・こきりこの竹は七寸五分じゃ・・・ こきりこ(竹の打楽器)の長さは22.5㎝に切るがよい
・・・長いは袖のカナカイじゃ ・・・   長いと踊る袖のじゃまになるからだ
ネットを開けば解ることですが
 文字ではその歌詞の表現がつかめません。 無駄はするなとのいみでもあるそうです
そしてこの唄は、五箇山の上梨(かみなし)地区に生まれ伝わっていることも
 この唄に欠かせない「ささら」は楽器としていろいろな演奏に使われています
音を出す板は108枚。 108とは煩悩の数。
  そしてここにはたくさんの唄と踊りがあります。
自然に逆らわず恵に感謝し、信仰を生活のモラルとしていることがうかがえました。
それがたくさんの民謡を創り出しているのでしょう。
その多くは明るいテンポのもの。日本最古の民謡とも言われています。

  合掌造り集落が知られるまでは忘れ去られてしまう普通の過疎の村
観光資源は思いもよらぬところに湧き出てくるのですね。
我が町も何かを探さなくてはと思います。
世界の日光に比較して「歴史的建造物がないから観光がない」とか・・・
人々の暮らすところに歴史は必ずあるのです。
 大船渡に支援物資を届けたときに、60代と思われる方が
「町も自慢の景色もなんにも無くなったけど、歴史は流されてない。
この津波も歴史。悲しいけど、観光資源が一つ増えた」と。
そんな会話を想い出しました。

二度目の被災地訪問              2011/7/20
7月4日・5日、大船渡市を再訪。
津波の被害の街中は重機が休む間もなく動いています。
大船渡の飲食組合の方から「町のニオイが消せないか?」との相談でした。
私のところの料理店で使用している除菌抗菌消臭剤を飲食店さんにお分けしています。
そんな繋がりからのオファー・・・・
津波によって冷蔵サンマが散乱し、三ヶ月間手つかずの状態だったのです。
ニオイ・ハエの根源はそこにあったようです。
サンマは一時空き地に埋められましたがニオイの解決にはならず、掘り起こして
浚渫船(シュンセツセン)で沖合に投棄したそうです。ですが埋めたところの土がニオイの発生源として残っています。しかし、ニオイは以前の100分の1に収まったとはいえ、初めての私はマスクをしていても息ができません。高台の住宅地では海風の時はたまらないそうです。
こんな劣悪な環境の中で人々は復興に黙々と取り組んでいます。
 室内でしか使うことのない消臭剤ですので、屋外ではいかがかなと思いましたが、
その中い暮らす人達にとっては藁をも掴みたい気持ち・・・に駆り立てられ、幾種かの消臭剤をもって試験散布に行ったのです。
結果は良好でしたが、散布できるのは極一部。周りのニオイに巻かれてしまいます。
散水車か、ヘリコプターでなければ・・・と思いつつも、結果が出たことに満足しました。
 避難所になっている北小学校では、50人ほどの方が避難生活を送っています。
市役所の課長さんから「調理場にしているプレハブ小屋が衛生面で心配」と聞かされました。
調理に使っている小屋は、子供達の菜園や花壇の作業用の農具等が片隅にあり、一見して
何か起きなければと思うようなところ。担当の職員さんからは、ハエ・ゴキブリ・ネズミ・カビが
悩みと。本剤はゴキブリ・カビ・除菌目的のもの。避難所の寝具のカビやニオイにもと、一缶差し上げてきました。
普段の生活が一変した現実はまだまだ解決の糸口さえつかめられない、あれから四ヶ月経った
被災地の現状を知ることができました。まだまだ道のりは長いようです。
梅雨が明けるとこの環境はさらに悪化するだろうと思います。
町の人口減少が復興に向けての大きな問題にもなっているようです。
津波の被害に遭ったところは、市民のほとんどが働く職場。
いつまでも収入が途絶えた生活はできませんものね・・・・。
嬉しい出会いに感謝    (2011.8.6)

 8月2日から3日間、被災地 三陸に行った来ました。
あの日から5ヶ月が経ち、被災者の方々はすこしづつ自分を取り戻せているように感じました。
多くの方が犠牲になられ、そして数え切れないほどの予期せぬ別れができてしまいました。
高等学校の体育館の避難所を訪れました。
仮設住宅に移る家族、市外に移っていく家族。日に日に、少なくなっています。
話し~聞かせてくれたお寿司屋さんの女将さん。家族も店も流されてしまったのです。
遺った家族でいつかお葬式をしたいと言います。
大袈裟なのはイヤなんだ。自分たちに納得させたいから、家族と友達だけでいいんだ。
いろんな人が来ると気つかっちゃって、何だかわかんなくなっちまうから。
孫も言うんだ、私たちが知っている人達でやろうって。

 校庭でサッカー遊びをしていた女子高生に
犠牲になっったお友達はいるの?
  友達はみんな助かったけど家族が犠牲になった子は何人もいるよ・・・

 みんなで話してんの、黒い服来たお葬式はヤダねェー。知らない人が来んのヤナンダァー。
ギスギスした感じで<何か亡くなった人の存在を忘れさせようとするような気がする。
忘れたくないよネー。忘れちゃったらかわいそーだよネー。
その何気なく話す女子高生に、私達が考えているそれとは違っていました。
この大震災で、お葬式の価値観は大きく変わるでしょう。

 夏休みを利用して多くの学生達がボランティアに入っていました。
その暖かな手は、学生達が自ら行動を起こして参加してます。懸命に汗を流してます。
 全国から、世界から届けられた義援金は、日本政府が要請したものではありません。
人としてやらなければならない・・と言う心の表れです。
その寄せられた義援金はいまだ被災者に届かないそうです。
私たちは被災した方々の少しでもお役に立てられればと願った義援金。
どうなっているのでしょうか。もうすぐ半年になっちゃいます。

 東北の人達は強い。復興も自分たちでと・・・明るく話してくれました。
この震災で、しっかりした次世代を創る若者がいることに出会った素敵な一日に感謝します。

トロッコ列車に乗って 2011.8.22
 お盆を送り、ホットした一日。家内の姉、88歳になる母の3人のオバチャンと
3歳になる将来は鉄道オタクになりそうな孫とトロッコ列車に乗ってきました。
お風呂の用意を持って。
日足トンネルを抜けてさぞ涼しいであろうかろうかと窓を開けると、期待はずれの
風が入り込んできました・・・。
わたらせ渓谷鉄道(わ鐵)通洞駅で乗車券とトロッコ列車の整理券を求め、
始発の足尾駅14:25発までの2時間ほどを足尾銅山観光に。
孫はこのトロッコ列車で充分そうである。
坑内に入ると長袖が欲しいくらいにピエピエ。
義母は展示の人形に「ご苦労さん。タイヘンだネー。」といちいち声を掛けるので
孫も一緒になって「ゴクロウさんだネー」と・・・・・。ほかの観光客が笑うこと。
 足尾も寂れたものです。高校の時訪れたことがあります。
日足トンネルはなく細尾峠をバスに乗って。カーブから見えた景色を覚えています。
閉山がささやかれ始めた頃でした。
 社宅が建ち並んでいたところは石垣が遺るのみでそこには雑草が被さり、街中は
通りを歩く人もなく、空き家とおぼしき家が並びます。
 列車でおにぎりでも・・と、コンビニを探しましたが無いとのこと。
 朝ご飯の残りで握ったおにぎり3個と、暑さしのぎの胡瓜でがまんすることに。
足尾駅構内の空き地に車を駐車してトロッコ列車に乗車。
平日だからか半分位の乗車率です。銅山でトロッコ列車に乗ってしまった孫は
これからが夕べ話して聞かせたトロッコ列車であることが解ってか解らずか・・・
牽引する機関車(DE10)の連結風景も見ることができました。 
通洞駅でほぼ満席になり、一路列車は渓谷沿いを南下。
沢入(そうり)駅を過ぎてさしかかった鉄橋ではスピードを落とし景色鑑賞のサービス。
そして草木トンネルに入ると天上にイルミネーション(銀河です)が点灯しました。
5分もすると肌寒くなり、外との温度差なのでしょうか、ガスが社内に巻き込んで
くるので更に涼しさが増します。
 15:38、もう一つの目的の水沼駅に到着。帰りの列車は17:30
それまで1時間余りを駅のホームにある温泉に。
このための「入浴セット」だったのです。
トロッコ列車運行の日に開かれる露天風呂にゆったりと。久しぶりの癒しの刻を
楽しみました。孫はオバチャンたちと女湯に入り浸りです。
 17:30発のワンマンカーで足尾駅に。(わ89ー310形 あかがねⅡ 一両編成)
若いとても親切な運転士さんが「桜の時期も新緑の頃もいいんですが、何と言っても秋がすばらしいですよ。沿線は広葉樹ばかりで、足尾に向かってだんだん赤くなります。でも、冬はモノクロになっちゃうけど。」
孫は運転士になりきっていて大満足。いつ覚えたのか運転士をまねて指差し点呼。
長い草木トンネルに入ると、変化のない景色にコックリコックリと眠ってしまいました。
 車窓からの足尾の街はすっかり夕暮れに包まれ、家々のまばらな明かりに、街灯が
ひときわ目に映り、異国の街に来たような感じでした。
心の森       2011.10.16

小説家、随筆家、ナチュラリスト、探検家である
C・W・ニコル【クライヴ・ウィリアムズ・ニコル】さんの講演を国際ロータリー
第2550地区大会で聴く機会を得ました。(2550地区は栃木県です)
タイトルは「人と自然の共生」
 氏は1962年に空手道修行のために来日し、1995年に日本国籍を取得しています。
長野県黒姫に居し、自然再生の「アファンの森」を創り、森の環境保護活動を行っている。
世界に類を見ない美しい自然と、人情の熱いこの日本を愛し、永住を決めたといいます。
 日本の67%は森林であるのだと。しかし、それも年々減っているそうです。
森が戻れば、環境が戻れば・・・自然の回復を得ることで、人の心も戻ると言います。
環境の回復は点でなく面で回復させなくてはならないと戻らない。
人の心が戻れば「いじめ」が無くなる。
氏は、自身の子供の頃の経験から訴えておられました。
 子供達が自由に遊ぶこと、行動に制約がある現在です。
ケガしたら責任問題に発展します。「責任は誰が取るの。」 
そんな中で子供達に「創造」ということ、「限界」知ることが育まれていくことはないだろうと・・・
 DV被害の子供達、自閉症や心を病んでいる子供達に、森で自由に遊んでもらう。
子供達には笑顔が戻ります。
自由を与えられた子供達は遊びを創造し、行動の限度を越えないそうです。
そんな中に、お互いに助け合ったり譲りあったりと協調性が生まれています。
子供達の心が開けていくのがよくわかるそうです。
自然の中で自由に動けることは、「人」の原点であると氏は言います。
森は季節を伝えてくれます。人はそれに癒されます。
 映し出されたアファンの森と接する人造の国有林は癒しをもらえるとは考えにくい
精気のない森です。
アファンの森は綺麗に色づいて、これが「生きている森」を感じました。

 私達は自然と共生しています。叩かれるときもあります。
憎むときもあります。
土砂崩れ、地滑りなどの災害を引き起こすのは自然の森ではなく、造りだした森。
私達はもっと身近に自然の回帰を考えさせられた講演でした。

いのちを守る森造り

東日本大震災から一年半が経ちます。
昨年、何度か訪れた大船渡・陸前高田・南三陸町・気仙沼。
その街や村落には松原があったと思われる浜辺があります。
津波により荒野と化した街や村落の姿を、倒されたり立ち枯れバラバラになった松原がより悲惨な風景に見せています。
今、それらの復興が気になるところでしたが、私の所属するロータリークラブが復興支援奉仕活動に防潮林の苗木育成を提案したのです。
ネットで「いのちを守る森の防潮堤」という民間の復興プロジェクトを知りました。 かつて、海辺に欠かせない防砂防潮林は松林が主で、白砂青松 と称され日本人の美意識の中にあるこの松が、津波によって家を破壊し尊い人命を
奪ってしまう危険な物に変わろうとは誰しもが思わなかったことでしょう。「いのちを守る・・・」は、世界的に著名な生物生態学者の意見指導のもとに、根の浅い松ではなく根が深く張る広葉樹で森を作り、押し寄せる津波の被害を少なくし、人命と財産の流失を防ぐ海辺の森作りを進めています。そして、遅々として進まないガレキを埋めて小高いマウンドを作り、その上に広葉樹を植える方法を提唱しています。ロータリークラブでは、その森作りをお手伝いをしようと計画。先日、いのちを守る森の防潮堤東北推進協議会長を訪れました。会長は仙台のお坊さんで、そのお寺が事務局になっています。
宮城県内のダブノキ・カシ・シイ・ヤブツバキなどの広葉樹の種を採取し、苗木を育てています。現在10,000本が芽を吹き育っているそうです。しかし、必要とするのはその数百倍。
私たちはその苗の育成を引き受けようと云うものです。
 ある老人が「若くないので被災地の手伝いが出来なくて被災者の方々に申し訳ない・・・」と言いました。苗木育成なら現地に行かなくても支援が出来ます。
ロータリークラブでは、この苗木の育成を小学生に預けようと云うもの。子供達にも被災地復興のお手伝いの仲間入りで、防災意識を持ってもらうのが目的です。
岩手県大槌町・岩沼市の仙台空港公園に試験植樹がされています。
しかし、この計画にも難問が待ち受けているようです。
 植樹をしようとする場所のほとんどは国有地で、民間が利用することは出来ない。さらに、ガレキを埋めるのは廃棄物処理法に抵触する。などなど、法律が邪魔をしているのです。
国が示している防潮計画は、海辺に高いコンクリート堤防を造ること。今回の津波で世界一の防潮堤が決壊し何も防げなかったのです。30メートルの津波が来れば40メートルの堤防を造るのでしょうか。
この「いのちを守る・・・」は、被災者の精神的復興と結束、命の大切さを教えてくれるものだと思います。
 国を守り、人々の幸福を保障しますと言い続けているのは《国》でしたね。

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